介護の覚悟
実際には逃げまわる気持ちの方が多く、出来る限り自分が関わらずに静かに亡くなることをどこかで祈っていたけれど、どうもそうもいかなくなって来たことを覚悟する。
もう逃げるより立ち向かうしかない。
リハビリ病院へと転院した母は、1ヶ月ほどで自宅介護へ戻る予定で進んでいる。また恐怖の自宅介護。父の負担も増えるから、結果的に機嫌が悪くなる。
でも、この所母の調子が悪そうに思っていた僕ら子どもたちに対し、回復傾向にあると半分願いにも似た父の意見は、結果的に当たっていたというか。見事退院へと繋がることとなるとは。
母のことを一番理解していたのが父ということなのだろうか。
80代の老々介護。結構キツイと思うよ。僕らの生活スタイルも少し変えなければと思った。もう逃げるより覚悟しかないんだよね。
友人の親の訃報を聞くと羨ましく思う
親に対して恨みがあるわけじゃない。喧嘩してる訳でもないし、顔を合わせるのが嫌な訳でもない。
でも、最近。友人の親の訃報を聞くと「良かったね。安らかに」と心の中で思うことがある。
人は死に向かって生きているのだけれど、その生と死の壁をどう通り過ぎるのか、それを試されている気がしている。
一発で難なく越える人もいれば、なかなか越えられない人もいる。
自分が躊躇うのか、周りが邪魔をするのか。
急遽の身体的な回復でリハビリ病院へと転院が決まった。
これは自宅介護へのカウントダウンでもある。数字は90と表示。あとは1日ごとに数字が削られていく。
自宅介護は地獄だ。父は気付いているのか。またあの日々が来るかと思うと、しばらく怖ささえある。
友人の親の訃報を聞くと羨ましく思う
親に対して恨みがあるわけじゃない。喧嘩してる訳でもないし、顔を合わせるのが嫌な訳でもない。
でも、最近。友人の親の訃報を聞くと「良かったね。安らかに」と心の中で思うことがある。
人は死に向かって生きているのだけれど、その生と死の壁をどう通り過ぎるのか、それを試されている気がしている。
一発で難なく越える人もいれば、なかなか越えられない人もいる。
自分が躊躇うのか、周りが邪魔をするのか。
急遽の身体的な回復でリハビリ病院へと転院が決まった。
これは自宅介護へのカウントダウンでもある。数字は90と表示。あとは1日ごとに数字が削られていく。
自宅介護は地獄だ。父は気付いているのか。またあの日々が来るかと思うと、しばらく怖ささえある。
介護者の家族の心境とは
「母の病気の進行が心配。」「元気になるといいな」という気持ちが全くない。むしろ「自分の生活どうしよう」が事実。
母よ、早く死んでくれないか
そう母へ思う気持ちは、いっときの間を置いてまた強くなった。
外から見守る側の気持ちが持たない。辛さしかなくなってきた。
心境の変化は大きい。
自宅介護の決定後は頼むから死んでくれと思った。
結局介護は父が対応することになったのだけど、父も介護の仕方は分からない。結果的に良い関係がそこにあるとは思えなかった。
弱っている母を見ていて、色々な事を思い出しつつ、やっぱり育ててくれた母だと思うと、何か出来ることを探していた。
突然の入院生活は痙攣の発作が多発してから。この頃父の理解力を疑う様になった。病院からの情報を上手く理解出来ていない。分からない事を聞かずにしてしまう癖がある。頑固といえば頑固だけれど、病院と家族を繋ぐ接点としては大問題だ。
この病院からなるべく僕ら兄弟が顔を出すようにする。けれども、やはり完璧ではない。諸々の連絡窓口が父であるだけに、情報が完全に止まってしまっている。
入院から数日経ち、母の容態がよくなった様で転院の準備をする。
そして転院前に血液検査などによって延期を2度繰り返された。そして病状も良い感じではない。医師が言っていた「5−6年」を大幅に繰り上げる感じではないだろうか?
こうなると、母を見ていても辛い。そしてその母の状況を100%理解できずに心配しか出来ない父の姿も見ていてキツイ。
早く死んでくれたら、家族皆が楽になるんじゃないか。
また、そう思う様になったよ。
本当の余命はどれくらいなのか
人間は誰も本当の余命はわからない。
数日と言われた患者が数年生き延びる話もあれば、さっきまで元気だった人が明日は息をしていないということもある。命のろうそくを可視化できるなら、本人にとっても家族にとっても悔いのない付き合い方ができるのではないだろうか。
人にはどうしても優先順位がある。身内の体調は気になるが、それより先に自分の生活がある。自立してなんぼで、その先に家族の健康や心配がくる。
自分の足元がぐらついて、どうして家族の心配ができようか。
事実上の余命宣告として5〜6年と言われている母の残りの人生はあとどれくらいなのだろうか。
検査の時間に嘔吐をしたという。経管栄養であるにも関わらず。
経管であるから、消化できるであろう速度。もしくは生活に必要な栄養量を与えられているのだろうと想像する。そして検査というタイミングは、予測される状況を踏まえて、それ相応の休憩が挟まっているはずだろう。
そこで嘔吐ということは、消化系も含めた身体の弱った姿が想像される。
くだが入っているからだろうか、母の会話は聞き取りにくい。ところどころ分かるのだけれども、とこどろどころ意味不明な状態となる。本人に意識もあり、話そうとする意思もある。更には話したい内容もある。
でも、母の姿を見て辛いという。無理して生かしているのではないか?と。僕には判断が出来ない。
母にずっと付いている訳にはいかない。ただ、あと何回、あと何時間会えるのだろうか。
母の転院が再度延期。良くない事ばかりを考えてしまう。
色々な意見を総合すると(ざっくり状況から判断するしかないけれど)…。
経鼻栄養法(鼻からチューブで栄養を胃か腸へ流す)は、
量の過多か送り込む速度によって嘔吐の可能性がある。
検査時ということなので、食事から時間を置いていると予測されるので過多はありえる。
ただし、何の検査をしていたのか(体勢や処置など)も分かると判断しやすい。
可能であれば栄養液を「何ml/日」とっているか確認出来ると良いかもしれない。
どの程度で過多と判断したのかは「家族の覚悟」の目安になるかもしれない。
食べ物を受け付けないという状態は、食べ物が足りずに飢える状態とは異なる。
特別な原因が無い限り、身体の反応として生命活動の低下と見ることも出来る。
栄養摂取量が減れば意識は薄れていく可能性がある。
嘔吐は肺炎の危険性が高まるので避けたい症状のひとつ。
症状が続く場合は在宅では対応しきれないだろう。
母が最後に願うことは何だろうね?
自分だったら、何をしたいとは思わず。家族の顔が見たいだけかもしれない。
点滴だけに頼る状況になる長くは無い。
ただ冷静に思い出すと、痰を吸い込む機械に栄養液が溜まっていた様に思う。
食事中にむせたりしているのだろうか。