ボケ老人が生き続ける意味とその役割とは何か
いよいよ実家に帰るのが嫌になってきた。
治る見込みが無い病人というより、治ろうとしない厄介人がいる。そして周り全てに迷惑掛けているとしか思えなくなってきたら、顔出すのが億劫になってきた。
もはや怒りしかないから、それを押し殺してその場に居ることが辛いのだ。
なぜあんなのに悩むのか。その時間が悔しい。
明日は実家に行く日だと思うと、昨夜から今朝にかけての睡眠が細切れだった。その都度時間を見れば2時間毎に近いタイミングで目を覚ましていた。
「惜しい人を亡くした」有名人、著名人がなくなると、そんな言葉がメディアだけでなく、SNSにも広がる。
もし、もしも命を誰かに与えることが出来るなら、ボケた母の残りの命をそうした方々へ分けて使って欲しい。
とある外科医が「人間は生理を終えても生き残る。これは生物としては異例」という話をしていた。その外科医曰く「人間には子孫を残すという役割を終えても、まだやるべき役割が残っているのかもしれない」と仮説と立てた。
親となり、祖父母となり、子供の世話や孫の世話をする。知識を共有し、文化文明を引き継ぎながら高めていく。そんな役割。自分の子でなくても、「子孫を育てる」は人間という生物の持つタスクなのだろう。
ではなぜ、自力で歩くどころか、食事もトイレもこなせない、そしてボケた人間が長生きする意味は何なのか?その人の持つ役割とはなんなのか?
医学や医薬の賜物であって、そもそも生物学的に「生き残る」役割は残っていないのでは?
物凄いアンバランスさを感じる。